子供のような中年と好きさ加減
自分には恩師と呼べる人が二人居て、一人は二社目で入っていた某プロジェクトの親請け(全体で言うと二次請けで自分たちは三次とかだったのかな。。)のトップの人でそのプロジェクトの実質のマネージャーでもあった人。プログラマとしての腕ももちろんだけど、管理者としても雑用を排除し、いつも「何か困ってることは無い?」と優しく声をかけてくれて「マネージャーってこういう人の事を言うのか」と感動した。(最近は連絡があるとだいたい仕事の勧誘のお話なので疎遠になってしまっていますが。。)
二人目は現職の元 CTO だった人。諸事情で現職には CTO 職が無くなってしまい、CTO という役職の人が居たこと自体社員の8 割ぐらいの人は知らない。元はインフラ周りをやっていて、転職先でついに社長になってしまい、V 字回復をさせた後に心臓を悪くしてその後にうちに来たという凄い人だった。
当時でも 45 は超えていたけど、誰よりも技術のトレンドに敏感で、社内の開発カルチャーを本当に変えようとしてくれた人。ただ、また心臓を悪くしてしまい4年前に去ってしまった。
最近、ひさしぶりに元 CTO とお会いすることができた。彼は今は大阪を本社とする CRM 等を提供している会社で働いているらしく、旅行の途中でランチをした。
病気を経てもなお
彼は、私と一緒に働いている時の終盤は、ニトログリセリンを持ち歩かなくてはいけない程で、正直なところ退職後も長期静養をされるのかと思いきや、半年経たずに転職の報がありたまに連絡をすると、たいてい出張をしているような感じで正直無理をされていないか心配もしていた。
実際今でも残業時間に関する警告を労務部からくらってしまう程度にはバリバリやっているらしく、初めて会った時のような元気な感じで安心した。(いや、ホントはもっとアクセル緩めて欲しい。。)
病気とどう付き合うのか
これには様々意見があると思うが、彼は「最終的に自分の身体は自分で理解するしかない」という判断の元、薬の量等も自分で変えてみながら結果どんどん減らしていったらしい。今はほぼ飲んでいないとか。
体調に関しては、単純に加齢の影響もあるので昔のようにはいかないが、それでも特別勤務時間を減らしたりもなく、変わらず仕事をしているらしい。
病後の弱気
正直に言えば、会う前は、私は彼から「病気があったから、仕事は〜のようにセーブしたり、無理をしないようにしているよ」とそういう話をしてもらうことを期待していた気がする。ただ、上記のように実際は全く異なっていた。それこそ彼は、一度本当に死の淵に立った人にも関わらず。
ただ、彼からは「病気の後には弱気がくる」という話をしてもらった。
特に彼の場合は、低迷しかけていた会社の社長職という火中の栗を拾うことになり、その中での心身の無理がたたって心臓を悪くしたと考えて当然な気がする。実際、自分たちがかかるような病院は、発生した病変という事象には対処してくれるが、その根本原因に関してはそれ程教えてはくれない。先天でも無ければ生活習慣や自律神経のような言葉で説明されてしまう。だからこそ、きっとその病気が治ったとしても、元の生活に戻ることで再発が怖くなる。
実際彼もそうだったらしい。ただ、そこで彼が考えたのは「好きさ加減」だったらしい。
そして、きっといろんな事象があったんだろうけど、彼はその中でも「やはり技術(彼の場合は IT)が好きだな」となり、また同じ業界に復帰することを選んだようだ。
好きさ加減(の自分の解釈)
スティーブ・ジョブズが本当に毎朝鏡の前で「今日死ぬとしたら〜」の下りをやっていたのかは知らないし、死ぬ事を考えた時に自分が日々行っていることを振り返るのは大事な事なのかもしれない。でも、たいていそこまでは考えることは無い人がほとんどだと思う。(もちろんもしかすると大半の人は日々死を意識して生きているのかもしれない)
ただ、自分が携わっている事、日常の事、やろうとしている事が、「どれぐらい好きなのか(またはそうでないのか)」は考える事はできるのではないだろうか。
本当にこのプロダクトを作りたいか?このチームで働きたいか?この会社で働きたいか?この町に住みたいか? もちろん、だいたいのことは白黒では表すのは難しいと思う、だから「加減」。
その加減をどう表現するのかは個々人によるだろうし簡単ではないかもだけど、それを考えて自分の日常をどう軌道修正するかを考える事が必要なんじゃないだろうかと思う。
それは義務や何かの圧力でやっていないか?
自分は借りた家の庭の手入れをある種の義務感でやっているが、それは本当に必要なのかと思うことがある。庭師を雇うお金が無いのなら簡単だ、家を変えればいいだけ。例えばそういうこと。(実際最近は楽しんでやれているので、これはもう少し考える必要はある)
例えば OSS に貢献するためにプライベートの多くの時間を使うのはどうだろう?
これは多くの人は楽しんでやっているからいいと思うが、一方で仕事で使う以上は貢献しなければという義務感や、転職にはそういう活動が必要という圧力も多少ある可能性がある。
ただ、苦に感じるなら、それはきっとそれ程好きではないのだろうと思う。自分は単純にできていない。
また、よくある「プライベートで勉強する」事に関しても同じかもしれない。それが好きで楽しんでやれる人が一番強いのは事実である一方、それ程好きでは無い人がそれに直面した時、どこでバランスを取ればいいのだろうか。少なくとも自分は、Ruby も Go も Python も Java もと学ぶ時間よりも今は小さな子供と一緒にいたり DIY に時間を取りたいと思ってしまう。ただ、一方で勉強しないとエンジニアとして死んでしまうという圧力も自分で勝手に感じてしまう。
仕事はその最たるものだと思う一方で、それも人によるのかもしれない。
人生という単位で考える必要は無い(場合もある)
人によっては、人生という単位でどんなことをいくつ為すかを考えるかもしれない。もちろん、そういう使命感にも似た事を考えられるような人が大きな事を為すのかもしれない。
でも、そこまで重く考える必要は無いとは思う。日々を好きな割合が多いことで過ごしていくこと(それが単なる怠惰になることが良いとは思わないが)の積み重ねが良い結果を生むこともあると思うし、そういう人が集まった補完的なチームが形成されれば、うまくいったりするんじゃないかと思う。(全く想像はできないけど)
好きなことを得意とし突き抜ける必要は無い(場合もある)
「好きさ加減」という軸で考えることは、日々仕事をしていると「そんな事より、プロダクトに適したものを、転職に有利なものを」と考えてしまうが、実際この業界だけ見ても、好きなことをやって、それが得意分野となり、突き抜けていく人は多くいると思う。
でも、実際それも総数から見れば稀有な例だろうなと思う。
人気の記事を書き、本を書き、カンファレンスで登壇しと、良いエンジニア人生を歩むためのゴールデンロードはそこにあるという感じもしなくも無いし、きっとそういう人達が業界を盛り上げていく中心になるのだと思う。
でも、それこそいろんな事情で全力に振り切れない人にも選べる道はないだろうかと思う。(楽な道という意味ではなく)
子供のような中年
最近、とある先生にストレスの溜まり方がヤバい、と指摘された事があり、会う人にストレス解消の方法を聞いているのだが、彼にも同じ質問をしてみた。
すると彼は、カバンの中から月刊I/Oを取り出し、「いやー最近はね、電子工作にはまっててね」といい出した。正直なところ、身体を動かすような趣味とか、映画とかそういうのを想像していたのに、まさかの電子工作で笑うしかなかった。しかも Twitter や LINE で bot を作りまくったり、各ベンダーの AI フレームワークを試したりと、どこのコンピュータ好きの中学生かと。彼は東京勤務だったため千葉に自宅があるのだが、出向で本社に来ているため今は単身赴任状態らしく、休日はほぼ家で PC の前にいるらしい、そして驚くべきことに、私服はほとんど自宅に置いてきて外にでる服はスーツしかないとか。。
なんか、「50歳ってこんなだっけ?」と呆れてしまうような、でも、思い返してみれば彼が自社にいた頃も、彼は朝早くから出社して自席で発売したばかりの技術書を読んでいて、当時売り出し中だった Windows8 のアプリで遊びたいともちかけるとすぐ乗ってくれて、同僚が作った Kinect のアプリで全社向けのプレゼンをやってくれる遊びココロ満点の人だった。
そして、全く変わっていないんだなと分かって、すごく嬉しくなった。
彼は「プロトタイプのアプリは作るけど、もうプロダクションのコードは書けない」と謙遜していたけど、管理職の上の方にいるにも関わらずプロトタイプ作ってくる辺りで、もう尊敬しかなかった。
好きなことで遊ぶ(遊べる)
好きなことが得意になって、それで何か価値を生み出せる人は素晴らしい。(OSS なんかそうだろう)
でも、好きなことで遊べる人も素敵だと思う。(それが誰の目にも止まらず、単に自分の中に閉じたものだとしても。)
自分は今何をしたら遊んでると言えるだろう。子供とは、、まだ面倒を見てる範囲かもしれない、でも一緒にレゴを作っているときは遊んでる、子供より熱中してる。庭は、、少し遊びが出てきた気がする。プログラミングは、、、、、いつから仕事の道具としてだけの存在になったんだろう。
ストレス解消と考えた時、「何か娯楽あるかなぁ、ゲーム?アニメ?」と考えていたし、それらはもちろん好きで最近全然やっていなかったんだけど、それとは別に何か好きなことをやってストレス解消ができればいいなと思う。
最後に
彼と話した事を頭の中で咀嚼する中で、書いていく方がいろいろ考えられるので書いてみた。
いつか、自分が何を変えたかを書くこともあるかもしれない。