プログラマー35歳、定年まではいかなかったが身体の一部を失うことになった

どれだけ健康に気をつけろという周りのメッセージを受け取っていても、不幸なストーリーを見聞きしていても、「自分は大丈夫ではないか」と勘違いしてしまうことがあると思います。特にまだ頭も身体も元気な年齢ともなればなおさら。

僕自身、34 歳の健康診断の結果を見るまでは自分の身体に異常なんてあるとは思っていませんでした。 でも突然、本当に突然その時はやってきました。

「もしかすると腫瘍かもしれません。精密な検査を強く勧めます」

検査から現在まで

ある内蔵に腫瘍を抱えた

細かな事は書きませんが、35 歳の健康診断での最後の医師の診察時に、腹部エコーの内容を見ながらその女性医師は「昨年の診断では嚢胞と書かれているし、昨年から変化はほぼ無いようだけど、、、これはもしかしたら腫瘍ではないかしら」と話し始めました。細かな事は覚えていませんが、彼女は慎重に言葉を選びながら、「腫瘍といっても、良い悪いがあるしね」などとフォローを入れながら話してくれましたが、もちろんこちらは寝耳に水なので心中穏やかではありませんでした。

これは、後日最終的に外科を担当してくれた医師から言われたことですが、「これを健康診断で発見するのは私が診察医では難しかったかもしれません。今回こうやって早期にこの病気を発見できたのは検診を担当してくれた先生の熱意でしかないです。」との事で、実際 34 歳の頃と腹部エコーに映るものはほぼ変わらなかったのに、異なる診察をしてくれたその医師とのめぐり合わせが一つ幸運でした。

実際、大きな病院で検査を開始した時の消化器科の医師も、当初は「前年との変化も無いし、形状的には様子見でいいと思いますけど、検査してみましょうか」という感じで、最終的に半年以内には切除しないといけないとなる雰囲気ではありませんでした。

検査期間

検査が始まったと同時に自分の中でもどんどん不安が広がり、それまで「娘を抱っこしてるから身体が痛いだけだろう」程度に感じていた食中・食後の身体の痛み等がどんどん腫瘍のせいではないかと思うようになり、またその痛みを強く感じてしまうようになったため仕事も休ませてもらう事になりました。

特に医師からの指示があった訳でもないのに、検査期間の 3ヶ月近くも仕事を休ませてもらい会社には感謝しかありません。(もちろん、検査だけでは傷病手当は出ないのでその間の給与等は全く無かったわけですが、それでも辞めずに済ませてくれたのはありがたかったです。)

大病院だったためかは分かりませんが検査は、数種の画像系の検査、そして最終的には一週間程の検査入院をし、実際に腫瘍の一部を採取しての検査と進んでいきました。

初診から確定診断が出るまで約 2 ヶ月半。

実際にその腫瘍に関する病名とそれが悪性である事を伝える時の医師のあの緊張感の作り方はやり過ぎ感がある気もしましたが(もう、空気が重苦しすぎて言う前からよくないと分かるレベル。。)、丁寧に説明してくださいました。

そして、その日のうちに外科に回され、その日の夕方には入院日まで決まるという流れで進みました。

検査期間中には何度か上司やチームリーダーと話す機会も作ってもらい、仕事の話しはまったくなく、他愛ない雑談をする時間をもらえたのはありがたかったです。どうしても一人でこもりがちになってしまうので。

腫瘍切除のための臓器の部分切除

実際外科での入院で行うことは腫瘍のある臓器の部分切除でした。 他の病院で診察を受けなおしたり、他の方法を探るという方法も考えられるのかもしれません。 ただ、健康診断を担当してくれた医師から「この臓器の場合は検査結果がどうであれ腫瘍があるなら切除した方がよいという話しになると思うけど」と聞いていたので、実際に「切除する」と外科医から聞いた時には、わりとすんなり受け入れられました。

もちろんこれは私個人の置かれたケースでの話しであり、例えば私のように地方ではなく東京のような病院の選択肢が多数あるような土地であれば変わってきたかもしれません。

確定診断から入院日まで

入院一週間前は麻酔医との面談や、入院に関する説明で通院する必要があったものの、確定診断が出た日からは 3 週間程の時間がありました。

その間は、年に一度程しか会えない遠方の祖母に会いに行ったり、結婚式を担当してくれたコーディネーターさんに会ったりという旅行をしてみたり、お世話になった上司に会いに行ったりしました。

また、仲の良い同僚が自宅にご飯を食べに来てくれて、彼が腰を悪くして入院していた頃の話しを聞いたりしました。

それ以外は庭の手入れをしたり、家族の食事を作ったり、仕事に忙しかった時にはあまりできなかったことをゆっくりとやっていました。 また、しんどい時って自然が広がっているような場所でのんびりしたいと思ったりしますが、私の場合は通常がそれなので、その点はいつも気持ちよく過ごせました。

娘との時間もこれまでも作っていたつもりでしたが、どうしてもせかせかしたり仕事のプレッシャーがとれない気持ちの中でだったので、ゆったりとした気持ちで娘と接することができる時間を作れたのは良かったのかもしれません。

可能なら育児休暇も取ってみたいと思っていたので、全く違った形ではありますが、育児休暇っぽいことができたなと思います。

入院から退院

合併症を併発すれば 1 ヶ月ぐらいの入院もありうると聞いており、年越しも覚悟していたのですが、まだ若いというのもあったのか、ほぼ理想的な形で術後の経過は進み、入院計画より 1 日早く退院することになりました。

これはまた書くかもしれませんが、医療機関の忙しさを目の当たりにした入院生活でした。
手術を担当してくれた医師のチームの一人が術後の経過も診てくれていて、その医師は別の医師が休暇中ということもあったのかもしれませんが、普通に週7日毎日診察にいらしていて、「いったいいつ休むんだ。。」という感じだったり、初日に夜勤をしていた若い女性はその後一日置きに夜勤に現れ(それも多少イレギュラーだったそうですが)、「この人の生活リズムが心配だ。。」となったりと、入院してるのはこちらなのですが、何かそこにいるスタッフさんが心配になるケースがありました。

ただ、本当にみなさん元気でこちらも元気をもらいましたし、娘が御見舞にくれば次々に話しかけてくれたりととても雰囲気の良い入院病棟だったなと思います。

退院時に何か差し入れでもと思って「差し入れとか持ってきてもいいんですかね?」と聞いてはみましたが、丁寧にお断りされました。県立の病院だったというのもあると思いますが、様々な理由で病院関係者への差し入れは微妙な扱いなんだなと学びました。

退院後

私の実家が病院から近い場所にあったため、入院時から家族は実家でお世話になり、私が退院してからも一ヶ月程は家族で実家で寝泊まりしました。

実際、退院したといってもまだ痛み止めが無いと寝られなかったですし、体力も激しく低下していたので、本当に助かりました。

実家に居る間は、できるだけ動くために長時間散歩をしたり、入院中大変だった妻に自由時間を取ってもらうために娘と私の母と出かけたり、とにかく身体を動かすように心がけていたこともあり、自宅に帰る頃にはかなり回復していました。

自宅に戻ってからも仕事復帰までは 2 週間程あった(今もまだ復帰前ですが)ので、引き続き庭の整理等をやっていました。もちろん、今ブログを書いているように、少しずつパソコンの前で作業っぽいことをしたりと仕事復帰に向けてリハビリっぽいこともしていました。

今後の病気との付き合い方

切除したからといって安心はできず、今後は再発や遠隔転移といった可能性と付き合っていく必要があります。摘出した腫瘍の病理検査の結果としてはその可能性は低いだろうとのことでしたが、ゼロでない以上は今後も年に数回の検査をしていくことになります。

仕事復帰に向けて

どうして病気になったのか

もしも検査の結果「悪くなる可能性はあるが経過観察で 」というものであれば、これまで通りの部門、仕事内容で多少セーブしながらでも再開しようと思っていました。

ただ、結果としては入院して切除となったわけです。

今回私がなった病気は遺伝である可能性は低く、簡単に言えばこれといった原因は分かりません(多くの生活習慣病みたいなものはそうだと思いますが)。若干珍しい病気であったことも不安を掻き立てるのかもしれません。
医師の言葉を借りれば「いつからかは分かりませんし、長いか短いかも分かりませんが、年月をかけて育ててしまったものです」。

エコーにたまたま映る程に育ったのが 2 年前だとしていったいいつからそこに居たのか、仕事を始めてからだろうか、東京に転職してからだろうか、現職に転職してきつい時期が続いた時だろうか、山に移住してからだろうか、それは分かりません。

お酒も日常的にはあまり飲みませんし、タバコも吸いません、定常的に運動することはありませんが、肥満というよりは痩せすぎです。好き嫌いもなく、間食もあまりしない(振り返ってみると、たまにしていましたね。。)。割りといい感じに生活できていると思っていたこともありましたが、そこに悪い部分があったのかもしれません。

もしかするとストレスを溜めやすいのかもしれません、比較ができないので主観でしかないですが、うちに溜め込みやすいし、山に来てからは飲み会もほぼなくなったので、そういう発散の場がなくなってしまったのかもしれません。

考えればいろんな事があります。

ただ、東京に転職して小さな 2 次請け、3 次請けみたいな会社で働いていたのも、「小さな会社でやりたい」と現職がまだ 20 人程度だった時に転職し必死に働いたのも、東京の通勤を逃れるために山に移住したのも、全て自分の選択です(最後は妻も入っていますが)。
もちろん残業きついとか人間関係辛いとかの環境や外的要因もたくさんありますが、決めたのは自分である以上は、こうなったことは自分の責任と受け入れています。

では今後どうするか。

自分の大事にするものを選ぼう

(病後すぐということもあるので、転職までは選択肢には入れられませんでした、その前提で。)

昔社内のコーチと話していた時のメモを読み返していたり、久しぶりに前職からの仲の良い同僚と話したりしていて、自分が働く上で今大事にしたいのは「一緒に働く人」だなと強く思いました。

僕自身はどちらかといえば内向的だし、人当たりは弱いです。何かを主張するのはあまり得意ではないですが、納得できない意見に従順になれるほどでもない。めんどくさい人です。よくそんな人間がリモートワーカーとしてやってこれたなというのもありますが、そこには特にこちらを気遣ってくれる仲間の存在もありつつ、多数の工夫と、そしてストレスを抱えつつというのがありました。

もちろん、これまで所属していた部署のチームは好きですが、人数が増えてきたり人の入れ替わりもある中で少しずつ自分のキャパシティを超えていく感覚がありました。自分がそこで成果を出すのに、いろいろと無理をしないといけなくなっている感覚です。

また、体力も落ちていますし、病後の不安というのもあり休職する以前の半年前のようなペースで仕事をする事は避けたい思いがありました。そこで、今回は以下の選択をしました。

  1. 正社員の中でもグレードを下げる
  2. 時短で働く
  3. 小さなチームで、良いペースで、働きたい人と働く

1, 2 について

現在所属している会社は対外的にそれを出しているかは分かりませんが、正社員には2つのグレードがあります。

給与の面では見込み残業代が入るか入らないかが大きな違いであり、業務の面では時間をきちんと限定できるような働き方ができるようにするというものです。

あくまで私の見解ですが、簡単な例をあげれば「保育園に毎日迎えがあるので、不定期に残業が発生するような仕事はできない」という場合に、上司の義務として、その社員に対しての仕事の振り方をきちんと調整するというものですね。

もちろん、それ自体は給与にも響いていきますので、単純に上位のグレードの正社員とくらべてみなし残業代分が無いだけという訳ではありません。

サイボウズの選択型人事制度の比べれば少ない選択肢ですが、「フルコミット前提のベンチャー企業!」としてだけでなく、多様な背景の人材も働けるようにという配慮で生まれた制度であり、今回の私にはピッタリでした。

今回はさらに 1 時間の時短勤務も選択させてもらいました。上位グレードにある「みなし残業」というのが結構でかいので、給与面では休み前から比べると半減とはいかないものの、かなりの減少幅で家計に対していえばかなりのダメージではありました。

もうすでに退職されているようですが、以下のブログでも時短にした際のみなし残業が吹っ飛ぶダメージは身にしみて分かりました。。妻、すまん。

blog.inouetakuya.info

ただ、上述の通り、私の場合は仕事の幅自体を一時的に制限したいという目的もあるため時間を縮める以上にだせる成果は下がるはずなので致し方ないとは思っています。

ただ、、、ちょっと調べると来年の新卒の初任給より少なくなるんだよな、、、、

3 について

社内には大きく 3 つの開発部門がありますが、今回はその中でも一番古く、一番大きな部門に異動することにしました(実は出戻りなのですが)。

大きな部門でかつ、一番お金を稼いでいる部門ということもあり、全体的に安定感があり、先日上司と面談した際に「部としての課題はあるか?」との問いに「今は大きなのはないかな」と回答が返ってくる程度には成熟していきている場所です。つまり、それ程ビジネスサイドからのきつい要求も無いですし、スケジュールに対してもリソースをうまく回せる部門ということです。(まあ、上司は「それでも人は足りないよw」とは言っていましたが)

休む前に所属していた部門は、社内ベンチャー的な雰囲気がある部門で、とても面白いしメンバーも好きなのですが、そこでもう一度働いた時にまた身体を壊さないかという怖さがありましたし、自分自身が「以前はこれぐらいできていたのに」と簡単に比較できてしまうことがストレスにならないかと。

その部門の中で、顧客との契約周りなど、営業・CS等との橋渡しをする社内開発的なチームがあり、そこがまだ正社員は2人だけというチームなので、そこで働くことにしました。

また、そのチームは現職で最初に私を受け入れてくれた先輩がリーダーをやっていて、もう一人は私の前職からの友人という構成であり、彼らと仕事を開始する上で何ら難しい事はないなという安心感があります。

加えて、前職からの友人は私がエンジニアとして最も一緒にやっていて心地よい人なのでそれも大きな理由です。(ここ数年は一緒に仕事をしている訳ではないので、友人として信頼しているという点が大きいのかもしれません)

家庭での役割の変化

休職する前の私は「妻の家事・育児の負担をできるだけ減らさなければならない」というイクメンというものをある意味脅迫観念にのように捉えて生活していたのかもしれません。

家事は分担していましたが、一日中娘といると妻が滅入るだろうと思い昼食はできるだけ家族で取るようにし(職場と家はそんなに離れていない)、家に帰れば夕食をかきこみ娘と風呂に入り、そのまま寝かしつけ自分も程なく寝る。朝 4〜5 時に起きて、勉強したり仕事をするか、庭の手入れをしたり雑用をしたり。(こう文字にすると大してやってないようにも見える。。)

ただ、どうしても休日を勉強時間等に使えなくなるので平日睡眠時間を削ってそこに当てるしかないというのが続き、ずっと身体の怠さが取れないという感じだったように思えます。

まあ、子を持つ親はみんな疲れが取れない生活をしていそうに思うので仕方ないのかもしれませんが。

保育園に入れることにした

妻の希望としては 3 歳になるまでは一緒に過ごしたいということでしたが、2 歳半になるこの 4 月で保育園に入れることにしました。

元々、「妻に少しでも一人の時間を持って欲しい」と思って、夕食後の娘との時間は私で対応するようにしていましたが、現状私の体力も落ちており、仕事にも復帰する上でもう私の努力では妻に一人の時間を作るのは不可能と判断しました。妻としては「一人の時間を作ってもらったのはありがたかったけど、それが無くなって困ることはないよ」との事でしたが、妻としても 2 歳を超えてどんどんパワーが増していく娘を何も無い山で一人で相手するのはそろそろ限界かなというのも実感としてあり、いいタイミングだろうということで入れることにしました。

後、現実的にもう私一人の収入ではギリギリで、妻の実家に娘を見せにいくための旅費等も簡単には出せなくなったので働いてもらうしかないという理由もあります。

平日の中の育児のタスクからは手を引く

手術後はもちろん体力も落ちていて傷も傷むからというのもありますが、風呂・寝かしつけも含めて妻が全てやってくれるようになりました。

もちろん、家にいる間は一緒に遊びますし、おむつ替えや着替え等はやりますが、1日の中の大きなタスクからは手を引かせてもらいました。

代わりに食事を引き受ける

これは休職時にやることがなかったから食事作りをやっていたのですが、育児のタスクをやらなくなった分、食事(+ 洗濯)を引き受けることにしました。

食事に関しては、私が術後に食事に多少の制限を加える必要が出たため、そこに対して知識を日々入れている私が作った方が効率がいいし、妻が作った場合にいちいち何を使っているか確認するのは、する方もされる方も気分がいいものではないので分担としてはこれがベストだなと。

時短で 17 時には仕事を切り上げるので、仕事をスパッと切り上げる理由として「ご飯を作らなくてはいけない」というのは一つ良いスイッチになるなというのもあります。

復帰後の不安

めちゃめちゃあります。

時短の時間すら働ける体力が持つのか。異動するとまたメインのプログラミング言語が代わるがついていけるか。スパッと仕事を切り上げて食事を作れるか。「勉強しなくては」というプレッシャーの中でまた生活リズムを崩さないか。仕事をやりすぎてしまわないか。切りがない。。

ただ、上司からは「こちらとしても仕事を無理していないか確認する義務があるのでなんでも相談して欲しいし、日報とかも回して欲しい」と言ってもらえたり、復帰後にスムーズに仕事を進めていけるようにと、長めの本社出張も許可してもらい、復帰後のプランもなんとなく描けるようにしてくれました。

加えて、病後の人間を受け入れるという多少厄介な事案ですが、きちんと復帰後の業務での期待を言ってくれたのも「無理な異動願いだったかな」という不安を消してくれました。

最後に

残りの人生があることを前提にしてはいけない

medium.com

上記の記事は検査が始まって少し経ってから見つけた記事でした。

同じ 35 歳、ただ彼の場合は私よりもっと重い状態。子供の 5 歳の誕生日を見れないだろうという辛い告白。彼のブログはまだ続いていますが、私はこの記事より先は読めていません。いずれ読むことがあるかもしれませんが、今はまだ読む気にはなれません。それはたぶん、まだ自分にもそうなる可能性がゼロではないという気持ちがあるからだと思います。
ただ、top highlight にもなっている以下は心に刻まなければいけないと思います。ここから受け取るメッセージは人によって様々だと思います。

Stop just assuming you have a full lifetime to do whatever it is you dream of doing.

娘に生かされたのかもしれない

(もちろんオカルトの話ですよ)

娘が生まれたのが 2015 年後半、最初に腹部エコーに影が映ったのは 2016 年、そして 2017 年に切除となった訳ですが、今こうしてみると娘が生まれた事がきっかけとして悪いものが明るみにでてきたように感じられてなりません。

もし娘が生まれていなければ、なんて話は馬鹿馬鹿しいですが、今こうして運良く生きていられるのは娘のおかげなのかもしれません。(もちろん産んでくれた妻のおかげでもありますね。)

妻に

自分では平静であろうとしても、やはりピリピリした雰囲気を出してしまっていたり、不安な事をつい口走ってしまうことがあり、心労をかけたなと思います。 実際、私は自分の身体の事で苛立ったり、口調が強くなってしまうことがあり妻はそれに怯えていた部分もあったようです。
もちろん入院時を中心に娘を一人見ていたのも大変だったはず。

妻は悪性腫瘍の告知の際も、入院時も平静を装って見守っていてくれました。退院後、仕事の事、家庭での自分の役割の事を話した際にも受け入れてくれました。

自分のような人間に、自分がこうなってしまった前も後も支え、共に歩いてくれる事を表明してくれた妻には感謝しかありません。ありがとう。

今は少しだけ以前の二人に戻ってきているように感じます。

生きているって素晴らしい

ですね。