「社会人大学人見知り学部卒業見込み」を読んでた

妻が著者の若林正恭さんの事が大好きなので(コンビとしてではなく、こちらだけだと思う)、家には彼の本が揃っているのだが、一冊借りて読んでいた。何ヶ月も前に。

倉庫の掃除してたら、返すのを忘れていた本が出てきたけど、いくつか付箋を自分でしていたらしく、なんとなくメモ。

「そういうお前は何が楽しいの?」

「君はなんでも俯瞰でみてしまってうから楽しめないんだよ」 ああ、自分は確かに俯瞰で見てしまっているなと思い当たる所があった。なんとなく楽しめない時にはいつもこの気持ちがある。

自分もそうだなと思った。面白そうなイベントがあっても、そこに居る自分というのを俯瞰で見ると、なんか無駄な想像をしてしまって、「行かなくてもいいや」となることが多い。

では、この俯瞰というものをただの自意識過剰と捉えて、それを排除することにより色んなことが楽しめるようになる努力をしたいかというとそうでもないのだ。 そんなことしても無駄だからだ。

わかる。というか、僕もそういう色んなところに顔を出したり、積極的にとかやったほうがいいのかと思った時もあった。田舎に住んでいると、逆にそういう場所に行かないと存在を認知されなかったりするので余計に。でも、意味ないなと今は思ってる。もちろん、本当に面白そうなものや、家族が楽しめそうなものは別だけど。

楽しいという気持ちはいつも内側から湧いてきて、日頃からぼくにこびりついている俯瞰の目線を徹底的に消失させる。俯瞰の目線で見なくてもいいぐらい楽しいことを見つけるしかない。

僕は地元の友だちが好きだ。
なぜかと言うと、彼らは自分の趣味に迷いが無い。お金の使い方や、将来のこととか考えた時に、「本当にそんなことばっかやってていいの?」とか「それやって意味ある?」とかいくらでも言えるし、僕もいつからかその趣味を捨てた気がする。
でも、彼らは本当に楽しそうだし、その話題を話す時、僕はだいぶ話題の内容について行けなくなっているけれど、話している時はファミレスでどれだけ変な目で見られているとしても気にならない。

イライラする人

そっか、愛のない他罰をする人は自分を肯定できてない

イライラしていた先輩が後輩を怒ってるみたいな話なんだけど、自分も感情が体調に左右されやすいのもあって、イライラする時というのはまあまあある。

遠隔で仕事をしているので、仕事で同僚に対して何かというのは少ないが(それでもイライラしている時は Pull Request のコメントが少し荒くなっているかもしれない。。)、家族はいつも家にいるので不快にさせている事があるし、ここでいう「他罰」のようなことをしている気がする。

ネタ帳

過去のネタ帳を読みながらいろいろ思うような話。

ノートを閉じて「そっか!」と何かに降参したい気分になった。ずっとお客さんの反応を気にしない強い心と絶対的な価値観を欲して、そのどちらも手に入れられないままなんだな。それも何十年も。

ソフトウェアのプログラマとして社会人を始めて 13 年目だけど、似たような気分。たぶん降参したのは自分はもう少し前だけど。

そりゃ、生物学的なものか経験的なものか分からないけど年を食って自意識は多少縮小したし、諦めがついている部分もあるにはある。だけれども、ノートを読み終わった感想として「もったいない」というのが正直なところだった。鼻の先ににんじんのようにぶら下げられた「理想の自分」とやらに、走っても走っても食いつけず、しかも、口だけは動かして食いつけてるフリもして、そして、食べられる足下のにんじんを見逃している。強い哲学を持っていて、しかも肩の力がいい感じに抜けている。なんて自分は一生を通じてどんなに欲しても無理だね。このまま、未完成で不格好なまま、不満だらけで、自分の希望通りではないタイミングで終わるんだ。
急に停止させられて、にんじんだけがぶらぶらと目の前で揺れている。でも、不思議なのはこの気分だ。絶望的な気持ちになるかと思いきや、妙に清々しいことだ。ボヤけていたピントがバシバシ合ってくるじゃない。これはもうあれだ、みっともないまま、あがいていくんでいいんだ多分。
ちゃんと降参して、理想を追う道から降りよう。おそらくそれが正しい。
だって、ちょっと降りてみたら今日がくっきり見えてしょうがない。

自分は「自分の希望通りではないタイミングで終わるんだ」を強く意識するイベントがあったこともあり、「理想」というのは一度無くなった気がする。
「今日」がくっきり見えるようになったし、「未来」のことも理想があった時よりも見やすくなった気がする。

〇〇さんが退会しました

すっかり SNS とは疎遠になって、たまにブログ書くぐらいしかしなくなった自分としては、「ほんとそれw」と思う話だった。

社会人大学卒業論文

天才は「結果が全てだ」と言えばいい。自分にはそれは関係のないものなのだ。
特にすごい訳じゃなく、特にダメじゃない。そんな自分の自己ベストを更新し続けていれば、「結果」があとからやってこようがこなかろうがいいじゃないか。特別な才能がないから自己ベストを更新し続けるしかないという諦めは、ぼくにとって自信になった。

ソフトウェアの世界でもすごい人と一緒に仕事をする機会があると、それに大きく感化される時がある。いつも最新の情報を追いかけ、アウトプットし、OSS に貢献し、カンファレンスでトークをする。この業界はアウトプットをすることが一つ重視されるポイント(他にもたくさんあるが)でかつ、そのポイントが貯まるとより大きな機会が得られたりする(こともある)。

でも、今となってはそれは自分には関係ない。でも何もしない訳じゃない。少しでも去年・先月・昨日よりもプログラマとして成長していくことが大事だと思っている。あくまで自己のモノサシの話。

その自信は不思議なことに、自分と社会というものを隔てていた黒い海の水を引かせて、往来を可能にした。唯一の参加資格と信じていた結果というものを必要とせずに自分と社会を渡り歩くことができる。社会が自分を拒絶していたのではなかった。自分が社会を拒絶していたというオチだった。
これからも、結果は出たり出なかったりするだろう。だけど、自分にできることは常に過程を紡ぐことだけだ。そう。社会なんて自己ベストを更新し続けていくだけでいいという自信さえあれば自由に参加していい場所だったんだ。
そりゃ相方が努力しないわけだ。相方は結果を必要とせずハナから社会に参加できていたのだ。自信をもっていたのだろう。どうりで常に胸を張っているわけだ。

話は少し違うかもしれないが、街にしろ、ソフトウェアにしろ「コミュニティ」というものに参加するには僕は「一定の貢献」が必要だと思いこんでいた。それは、つまりはここでいう「結果」なのかもしれない。
街では地域を盛り上げるための施策を考えたりとかのコミュニティがあり、ソフトウェアでは地方のIT勉強会や子供向けのイベントなんかもある。
ただ、家族もいて仕事もあってだと、少なくとも自分の割けるリソースでは、そこに一定の貢献をするのは難しい。(例えば、きちんと全てに参加するとか)

そこには「楽しいと思っていない」とか「そこまでの熱量が無い」とか前述したような感情も無くはないが、勝手に自分で作っていたハードルもあるんだろうなと思う。自分が勝手に「貢献の無いものは参加するなと思い込んでいる」という感じ。

まあ、コミュニティ運営に限って言えば、全員がなんの貢献もしなくなると崩壊することになりそうなので、やはり話は違うのだけど、こんなことを思ったのだった。

最後に

前半の付箋は落ちていて、後半というか終盤の方の残っていた付箋だけを拾って感想を書いたが、全体を通してネガティブな人間が読むと共感度が高くて面白かった。