予想どおりに不合理 12, 13 章を読んだ

読んで考えたこと

不信の輪

「なぜわたしたちはマーケティング担当者の話を信じないのか」という一文から始まる。さっそく筆者がケーブルテレビ事業者に騙された話から始まるが、わざとわかりにくくしているプラン設計や、特定の大事な条件が小さなフォントで書かれているなんてのは、今でもよく見る光景だと思う。

企業がわたしたちに持ちかけてくる提案がわたしたちのためではなく企業のためのものであることを一般の人が理解しはじめた

という部分があるが、割と営業中心の会社を中から見てたことを思い出せば、例えそれが一見するとお客に有利な割引であったように見えても、そこには解約しにくい仕組みがバンドルされていたりと「うーーん」と思う部分が多くあったように思う。もちろんそれが悪いとは思わないし、同業種がやっているようなことがほとんどだったが、上述のように「わたしたちのためではなく企業のためのものであること」というのは、実際そうなんだろうなと思ってしまう。

共有地の悲劇

資源共有についての話で、漁獲量や化石燃料についても言及されているが、みんなが長期的な利益について考えればいいが、一人でも短期的な利益や目先の必要に走ってしまうと、その人だけではなく、全体の信用が失われうまくいかなくなってしまうというもの。

確かに信用というものは、それを落とした人に対してだけでなく、その人が属するグループや、果ては業界という大きなものにいたるまで広がってしまう可能性があるということだと思う。よくは知らないが、ビットコインなんかはいくつかの事業者のミスや犯罪の影響でだいぶ信用はなくしてしまっているようにも見える。小さな例でいえば、最近多くなっているリモートワークにしても、誰か一人でもさぼったり、真面目にやっていない人がいると「社員はリモートワークはできない」と上層部は判断し、全員が出社しなくてはいけなくなってしまうかもしれない。

信用をきれいな空気や水のように公共財としてとらえるようになると、信用の度合いが高ければ、人と意思疎通ができ、財産の移行を円滑にでき,契約を簡素化できるなど、さまざまなビジネス活動や社会活動において、すべての人が利益を得られることがわかる。
(中略)
信用は貴重な公共財であり、これを失うとすべての関係者にとって長期的にはマイナスの結果となりうる。大半の人も企業もこのことに気づいていないか、無視しているのではないかと思う。信用を裏切るのはたやすい。悪いプレイヤーが市場に数人いるだけで、ほかのすべての人にとって信用がだいなしになってしまう。

この後の話で、自分は正直でいたいと思うが、周りの人は信用に値せず、他人も信用しない場合というのが書かれている。書籍内では出会い系サイトが詐称に溢れていて、探す側もそれを前提に差し引いて見ているというのが印象深かったが、実際自分も証券会社からのメールを筆頭に、うまい話には裏がある前提で真面目に取り合わないし、そういうのも含めてネットリテラシーとか言われるのは、「信用がない世界」ってことなんだなと納得した。
仕事をしていたって、「この見積もりで出すと、x 日前倒しでと言われるから、最初から x 日分足しておこう」と「どうせ開発者は大きめの見積もりを出してくるから削らせる前提でいこう」という本末転倒な読み合いが発生したりして、まじで時間の無駄なので信用大事だなと思った。。

あなたの疑心はどこまで深刻か

ここではまず、信用できない対象(最初の実験では政党など)が出している記述を正しいと思うかという実験だったが、不信の度合いが高すぎて、明らかに正しいと思われる言説すらも疑ってしまうというのは面白い。
さらに次の実験では、ある音響機器に対して、宣伝会社のパンフレットと、信用のある雑誌のレビューを読んだ後で、「いくらなら払ってもよいか」という実験だったが、これも宣伝会社の信用度合いの低さが浮き彫りになるものだった。

本当はいいものでも、信用度の低い宣伝会社が宣伝することで、利用者の体験すらも低下してしまうというのは、今だと宣伝会社じゃなくても SNS の著名人の発言なんかでも影響受けそう。

希望はあるか?

ここでは、ジョンソン・エンド・ジョンソン社の昔の事件とその対処法が、透明性と自己犠牲によって信用を回復させた例として紹介されている。

他にも、今ではよくある光景になっているが、 SNS で顧客の声を集めたりする企業の紹介、続いてティンバーランド社が環境や社会的に責任ある行動が経済的に益になるかどうかを問うていない振る舞いが紹介されていた。

ティンバーランド社の例には環境への貢献だけでなく「従業員を公平に扱うこと」もあげられていたが、こういう企業の社会的な問題への取り組みみたいなものは CSR 活動みたいなくくりで最近はよく見るようになったが、実際ハリボテで、企業の評判をあげるための道具なんじゃないかとここにすら疑いの目を向けてしまう。

そういう活動をしている企業に女性の役員がいるだろうか、従業員に十分な給与を払っているだろうかなど、結局どこかで abuse が発生しているんじゃないかと思ってしまう。もちろん CSR 活動のようなものをしないほうがいいとは言わないが、社会へのアピールだけでなく、内部での自社への評価を上げるというのもおろそかにしてはいけないと思う。

「信用は実体感のある重要な公共財」これは自分も意識しながら生活していきたいと思う。

わたしたちの品性について その1

「正直な人の不正」から始まるが、これはまさに自分に当てはまること。

ここでは、銀行強盗の被害額より「従業員による職場での盗みや詐欺」の被害額や、保険会社への財産損失申請に架空のものを上乗せする額、本来徴収できるはずの税額と実際の税額の差などが大きいという話があげられている。 

自分も会社員ではなくなったので今は無いが、思い出してみて欲しい、会社の備品のペンやポストイットなんかを私的に使ったことはないだろうか。明確には思い出せないが、何かはありそうな気がするし、返却するディスプレイのケーブル (HDMI だけじゃなくいくつかの種類が入ってた)が発送時に見つからなくて「なければいいですよ」と IT 部門の人に言われてそのまま送ったが、その後見つかり結局そのままとかはある。

この章では、こういう普段自分は正直者だと思っている人の不正に関しての話。

正直とはなにか? / 十戒のはなし / 専門職と職業宣誓

まず、正直や不正直が「費用便益分析(ペンを取ったときと見つかったときの代償など)」で成り立つかというものだが、どうやら不正直に関しては「不正が見つかる」というのは計算に含まれないことが多いらしい。つまり、「正直な人の不正」は見つかることをそもそも想定しないようなものが多い。

続いて、十戒を思い出させる(覚えている必要はない)だけで、不正が可能な状況であってもそれを思いとどまらせることができたという実験の結果が示された。

さらに十戒とは違い、宗教に関係がない「職業宣誓」に関しての話に続く。
そもそも知らなかったが、専門職がエリート主義的であるとして専門職の規制や規則が撤廃されたらしい。一方で、それまでの専門職としての誇りやそこから派生した倫理観等が失われ、以降は柔軟な個人的な判断や富への欲求がとってかわってしまったよう。

こういう専門職倫理の低下は、あらゆる業種で蔓延してしまい、信用の低下を招いているようだ。

ここでの実験の結果としては、「職業宣誓のようなもの」(学生を対象にした実験であるため、学校に職業宣誓はない)に署名をするだけで十戒のときと同じように道徳心が呼び起こされ、ごまかしを完全に排除する振る舞いになったようである。

これまでにわかっていることをまとめよう。人々はチャンスがあればごまかしをするが、けっしてめいっぱいごまかすわけではない。また、いったん正直さについて考えだすと--十戒を思い出すにしろ、ちょっとした文面に署名するにしろ--ごまかしを完全にやめる。つまり、私達はなにかの倫理思想の水準から離れると、不正直に迷い込む。しかし、誘惑に駆られている瞬間に道徳心を呼び起こされると、正直になる可能性がずっと高くなる。

不正直になりやすさを自覚する

正直はビジネスにおいて最善の策、こういうことは多くの企業・政府は理解できているのだろうかと本当に疑問に思う。ここでは、信頼の基盤が無い国の例がいくつか挙げられているが、正直な国家というものがどういう風にビジネス活動や信頼の基盤構築に成功しているのかも知りたい。

正直な国家を保つために何ができるだろう。自分の価値観を反映する、聖書やコーランのようなものを読むのもいいだろう。専門職の基準を回復する方法もある。署名して誠実に振る舞うと誓約してもいい。べつの方法は、何よりまず、個人の金銭的利益が自分の道徳基準に反するような状況に陥ったとき、わたしたちは真実を「曲げ」、世界を私欲と矛盾しないものとして見て、不正直になってしまうだと自覚することだ。この弱さに気づけば、はじめからそうした状況を避けるよう努めることができる。

倫理観や道徳教育というものは難しいなと感じる。大人でさえ、平気でこのように世界を自分の私欲に準ずると考えてしまう。

「相手の気持ちになって考える」という言葉もあるが、不正直になる対象が人ではなければ、そこの感覚も薄れてしまう。

書籍中にもあるが、まさに「母親がいいそうなことばかり」が頭に浮かぶが、不正直になる自分を自覚し、かつそれを定期的に自覚し続けることが大事なのかなと思った。